本日の施術を終えて1日を振り返ったときに、とんでもない氣付きがありました。
視覚自体が死角になっている。
「視覚」自体が生きていく上での「死角」となっているということです。
日本語で最も大切なのは「音」です。
そこに多くの意味が含まれ、それを読み解くことで多くの氣付きがもたらされます。
視覚で捉えられない現象をどうやって事実として認識するか。
ただ「事実」がそこにある。
その事実の認識に「視覚」という感覚のみで対峙する場合と、全身の感覚で対峙する場合では、自分の身の回りで発生する現象の質が大きく変わってくる。
このことをハッキリと認識させていただいた臨床経験に感謝です。
日本語から学ぶことが出来る施術感覚は多岐に渡ります。
幼い頃に日本語を聞いて育つか、英語を聞いて育つかで脳の作られ方が違うことを実験結果とともに文章として書籍にして残されている方もいらっしゃいます。どちらがいいとか悪いとかではなく、自分自身が幼い頃から日本語で育てていただいた意味を考えるべき時期がやってきたということがようやくわかりました。本日の氣付きはとんでもなく大きな氣付きですね。書き記さずにはいられませんでした。このような感覚に至らせて下さった皆様とのご縁に心から感謝いたします。