ステファノ・マンクーゾ氏の「植物は<未来>を知っている」。前著「植物は<知性>を持っている」に引き続き興味深い記述の多い書籍です。様々な分野の書籍に触れることは「人間」を捉える上で考えるきっかけを幾つも得られるため、休日に書店を練り歩くことは私のささやかな楽しみの一つです。
本書で記憶に残ったのはレオナルド・ダ・ヴィンチの植物を観察する能力の高さについてなどを記述してあった部分ですね。樹木の年輪の形成の仕方、木がどのような気候を経験してきたのかを導き出すことが出来るという発見なども彼の業績だそうです。
この本ではダ・ヴィンチの発見の一つ「枝についている葉の並び方」すなわち「葉序」について記述があります。様々な植物を観察してみると枝についている葉の並び方には一定のルールがある。どんな植物にも独自のルールを持っているということに氣がついたということです。そしてこの「葉序」は葉が影をつくらず、光が植物にできるだけ当たるように工夫された並び方であることまで発見しています。この何億年もの進化の過程で植物が身につけた法則に氣付いたことには本当に驚かされます。
この記述を見て私が刺激されたのは「人間の生物としての法則」はどのようなものだろう?」という好奇心です。法律のようないわば「勝手な人間のルール」ではなく、地球上に存在する生命としての「人間」における上述の「葉序」のような法則はないのだろうか?
私の現在の結論は「ないわけがない」です。
しかし現在、人間が人間を知るための機会がどんどん奪われ、世の中は人間によって生み出された人工物で溢れかえり、人間の決めた「人間にしか通用しないルール」の中で皆が右往左往しています。自分が地球上の一つの生物であるということも忘れて。
植物を見て、枯れそうになって調子が悪くなれば「調子が悪くなる原因は環境にある」ということは多くの人がすぐに氣付きます。水槽の魚を見ても魚が苦しそうにしていれば「水(環境)が悪いのかも?」と多くの人がすぐに氣付きます。間違っても魚に注射はしないでしょう。
上記の植物も魚も不調に対する対処の方法は環境を正常に戻すことです。そしてこの対処はある程度「法則」がわかっているから講じられることであります。
私は人間の不調に対して日々向き合うことを生業としているため、その「法則」についての考察を日々行っています。そんな時にこのような「生物の法則」の記述に出会うとあらためて「人間」を考えさせられるのです。私が「常識、非常識は大した問題ではない。」といつも言っているのは「常識」の適用範囲が「人間の作ったルール」に限られるからです。地球上の一つの生命として「人間」と向き合うのに「人間の作ったルール」がどれだけ小さな範囲しか網羅していないか。抱える問題がこのちっぽけな範囲から外れているだけで「お手上げ」になる。これを多くの人が信じ込んでいる。このちっぽけな範囲の外に「可能性」はないのか?これは自然科学を少しでも学んでいればすぐに氣が付く視点です。
自然に学ぶ。今の時代に最も必要なのはこの視点です。そこに焦点を当て、自分という「人間」を個人個人がちゃんと掘り下げながら生きていく。このようなことが本当に大切であることを感じさせていただけた書籍です。
読書をしていると「昔、それほど記憶に残ることも無かった書籍が時間をおいて読み返してみるとどんどん記憶に残るような書籍に変貌している」ということもよくあります。万物流転、自分というものが様々な経験を通して刻一刻と変化しているということを示す好例ですね。本は借りずに買う。そうするとこのような発見が日々あります。